自分で考えるということ 哲学するということ

新聞には、朝日から産経まで、それぞれの論調があり、
テレビも、自分たちの主張を代弁してくれるコメンテーターを登場させますから、
高い見識と深い洞察で、本当の意味で社会に警鐘を鳴らしてくれる人の
声は届きにくくなっています。



一般的な報道を鵜呑みにしないと同時に、たとえ善意によるものではあっても
思い込みによって偏向する傾向のある左翼系市民運動家の声もまた、よく吟味しないといけません。
そうでないと、リベラルなつもりで、理性を欠いた狂信的な行動をとることになってしまいます。
私は、自分と異なる立場の人の意見にも耳を傾けますし、議論することも大切だと思っています。
考えが違っても、相手を人間として否定しないことが、民主主義の基本ですから。



そのうえで、自分自身でよく問い、学び、考えることが必要だと痛感しています。
哲学(philosophy―智を愛すること―)するとは、そういうことでしょう。


思うに、どんなに敬愛する人物も、信頼する宗教団体も、政党も、決して完全無欠ではないし、自分とぴったり一致するものでもありません。
柔軟に他者の意見に耳を傾けると同時に、常に批判的な視点も持ち合わせていないと、流されてしまいます。
人間は本当に一人一人違うのです。そういう意味では、非常に孤独な存在です。
しかし、弧絶しているわけではありません。




ユニークな存在である一人一人は、それぞれの違いを超えて、共感し、理解し、互いの強い結びつきを認識し、協力し、愛し合うことができます。
と同時に、残念ながら、どんなに努力しても理解できず、ともに歩むことができない場合もあります。
それでもなお、自分の生存が脅かされない限りは、相手の存在を尊重しながら、別の道を歩むという選択が可能です。
これが現実ではないでしょうか。


庭の薔薇  dream weaver   2011.5.14