復活徹夜祭(土曜日の夜に、大幅に加筆修正しました )

昨日は、受難の金曜日だったので、緩やかな断食をしました。浮いた食費は、被災地のために献金します。毎週プチ断食をしたら、余分なものが溜まりがちな体のためにも、社会のためにも良いかもしれませんね。
昨夜遅くからの雨模様。被災地では大雨の恐れもあり要注意とのこと。地盤が弱くなったり、沈下したりしている地域では不安が募りますね。どうか大きな被害がありませんように。

これから私は夫と教会に行き、ちょっとした奉仕活動をします。復活徹夜祭は、午後7時から9時過ぎまで。聖書の世界では、1日は日没後から次の日没前までです。だから、復活際は今夕から始まるのです(太陽暦を取り入れたキリスト教も、この習慣についてはユダヤの伝統を引き継いでいます)。本来は徹夜をすべきなのですが、現代では、多くのカトリック教会が、社会生活に支障をきたさないよう、土曜日の晩に復活徹夜祭を行います。神田のニコライ堂などの正教会では、今でも夜を徹してキリストの復活を記念する祭儀を行っています。

キリスト教の復活祭はもともと、ユダヤ教の「過越祭」(ペッサハ)に発しています。ユダヤ教の、エジプトから脱出し約束の地へという過ぎ越しを、キリストの死と復活による死から生へという過ぎ越しにシフトした意味づけを持たせたのが復活祭といえます。ラテン諸国の言葉では、復活祭を「パスカ」といいますが、これも「ペッサハ」からきています。

祝う日取りも、ペッサハが原型です。太陰暦ユダヤでは、ペッサハはニサンの月(太陽暦では3〜4月にあたる)の15日から丸一週間祝われます。その15日は、春分後の満月となります。キリスト教太陽暦を用い、しかも、15という日にちではなく、固定した7曜式の日曜日に復活祭を祝おうとしているので、復活祭はその年によって日にちが異なるます。その日にちは、春分を過ぎた満月後の最初の日曜日となります。

また、復活祭が現在のような形になったのは、キリスト教がヨーロッパに伝播される過程で、ヨーロッパ北西部で信奉されていた女神エスターの春の祭と結びついたためです。春分を過ぎると日が長くなっていく現象を古代人は、衰えた太陽が再び力を得て蘇るととらえました。暗く寒い冬から春に季節が移り変わり、草木が芽吹き、鳥や獣が新しいいのちを育むのを、古の人々が「いのちの蘇り」と感じて祝ったのは、きわめて自然なことであったでしょう。復活祭を表す言葉は、英語ではEaster(女神エスターに由来する言葉)です。このことからも、キリスト教が、いかにゲルマンやアングロサクソンの文化や習慣を取り入れながら拡張していったかが窺えます。さらにいえば、太陽が崇められること自体、荒野の民(ユダヤ)の発想から完全に離れたことを意味します。陰鬱な気候風土によって育まれたことが、ヨーロッパでその後広まっていくキリスト教の特質を形成する要素の一つとなったといってもいいでしょう。

ところで、キリストの復活って何?と思われる方も多いことでしょう。
わかりやすく言うと、イエスの死後、悲しみに沈み、不安におののいていた弟子たちが、キリスト(ヘブライ語ではマシアハ、アラム語でメシア=油注がれた者)がいつでも共にいてくださることを実感し、希望をもって立ち上がり、イエスが教えたように生きることが出来るようになったということです。
新約聖書の記述によると、イエスの実存を体験した弟子たち(もともとガリラヤ湖の漁師たちだった)は、「ガリラヤに帰るように」(新約聖書学ではこれを「ガリラヤ帰還命令」と言います)との、心に強く響いてきた師の呼びかけに応え、故郷に戻って漁師としての生活を再開しました。彼らは日常生活に戻ったのです。
この件は私の中で、震災で大きな痛手を受けながらも、1日も早く日常の生活を取り戻したいと願い、前を向いて立ち上がろうとしている三陸の漁師の方々の姿と重なってきます。イスラエルの北部の田舎ガリラヤに育ち、ガリラヤなまりのヘブライ語を話したイエスとその弟子たち。ローマの属州となった国で、ヘブライの教えと文化を守り、なんとかアイデンティティーを保とうと、必死で励ましあい、トーラー(教示)の核心に立ち返ろうとしたハシッド(敬虔な者)たちの行動に思いを馳せるとき、たとえ愛しい者の死に直面し、どんなに苦しい体験をしても、これこそが自分たちの生き方なのだという、なにものにも犯しがたい誇りと確信をもって前向きに歩むことこそが、「いのち」に結ばれる生き方であり、真の安らぎにいたる道なのだと感じます。

今年の復活祭に私は、このような思いをいだきながら、イエスの様々な言葉を思い起こし、世界中のために、とりわけ被災した日本の人々のために祈ります。